さびブログ@アラ還毒親持ちの日々

それでも絶対幸せになれる。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」より

愛の種類

この本の冒頭だったか、別の本だったか記憶が定かでないが、

「同じ木の枝に止まっているそっくりな2羽の小鳥」になぞらえて、2種類の愛について語っている文章がある

「どちらも同じようにさえずり、同じように身繕いをする。同じ声、同じ羽。けれどその内面は天と地ほど違っている」

要は本物は一羽だけで、もう一羽はそっくりなニセモノというわけ。

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一方的に相手に愛を与えたつもりであっても、受ける側が苦痛であれば

それは愛ではない。

男女の仲なら相手が嫌がっていることが容易に伝わるけれど(違うかな)、親子の間ではそうはいかない。

子どもは親の、ニセモノの愛を見抜けず、苦痛を声に出す術を知らない。

親は子どもを愛しているつもりで、実は自分自身を愛しているだけ、という場合があまりにも多すぎる。

 

この有名なフロムの本を私が読んだのはもう何十年も前で、しかも本棚から掘り起こそうとしても

どこへ行ったかわからない。なので、うろ覚えで間違いだらけの内容となったら問題なので、

一応ググってみました。

 

大まかには

「本物の愛はもともと、人間に与えられた衝動ではなく、時間をかけて育み獲得してゆく技術である」

と、いうようなことが語られていた。

 

害になる親

その中で一定のページを割いて、母親について語られている部分があるのだが、最も子どもに害を及ぼす母親とは、

子どもの前で笑顔を見せない、不幸な(不幸そうな)母親

である、ということだ。

子育てを成功させたかったら何がなんでも幸せでいろ、ということらしいが、これって子育て真っ最中は

非常に難しいと感じる人も多いのではないだろうか。

私の考えでは四六時中笑顔でいろ、というより(それは無理ゲーだし)

子どもと一緒に1日に一度でもいいからただ、笑いあえればそれでいい、と思う。

 

子どもの目をしっかり見て、笑ってあげる

仕事や雑事、家事に翻弄されて、余裕がまったくないような日常でも、ふと子どもに目をやれば、

そこには何かしら笑える要素がある。

どんな親でも「よく見れば」愛を感じるような何かしらを、子どもは持っている。神様がそう作っておられるのだ。

 

子どもが何かやらかした、ふとした瞬間を捉えて、心から笑ってあげる。

愛情を込めて、いかにも楽しげに笑ってあげるのだ。そして抱きしめて「大好き」と呟いてあげる。

 

子育ては、それだけでいい。これだけできていればあとは何もしなくても、子どもは生き生きと

のびのびと育ってくれる、と私は思う。

 

そんな余裕さえないわ、というお母さんは要注意である。

私の母親がそうだったからだ。

 

私の母は、幼い私に目もくれなかった。

話しかけても返事はなく、上の空で別のことをひたすら考え続けていた。

学校から帰っても「おかえり」の一言をかけてもらった記憶すらない。まるで私の顔を見たり、

話をすれば悪いことが起きると信じているかのようだった。

それどころか私は母に

名前を呼ばれた記憶すらない。

信じられないと思われるだろうが事実です。

 

もちろん、怒られる時は声高に名前呼ばれたし目も合わせてくれましたよ。それ以外は一切なし、ということです。

一緒にお風呂に入ったことも絵本を読んでもらったこともありません。

(母は完全専業主婦だった)

 

こう書いてると私はよく、ぐれて暴走しなかったなと自分で感心するほどだ、全くのところ。

私はひたすら母の気にいられるように生きてきたが、本来子どもとはそんなことを気にするのが仕事ではない。

子どもは子ども本来の姿でいること「こそが」仕事なんである。

それを認めてやれない親はまず、親の資格が70%ほどどっかへふっ飛んでしまっていることを

自覚した方がいい。

 

子育て成功の秘訣

時には子どもを可愛いと思えなくたっていい。時には大声で罵倒したり叩いてしまうことが

あったって別に、

そのことで自分を責めるにはあたらない(もちろん虐待はあってはならないけれど)

 

忙しいお母さんへ。1日にたった一度、穴のあくほど子どもを見つめてあげよう。

そうすれば必ず「くすっ」と笑える瞬間がくる。

その瞬間をすかさず捉えて、子どもを抱きしめてこちょこちょするなりなんなり、布団巻きにするなり

楽しく笑いあえれば、子育てはまず安泰だから心配することはない。

 

それがフロムのいう「本当に愛するための努力」だと思う。

 

エーリッヒ・フロムの説く毒親とは、不幸な親または不幸な顔をした親。

笑顔を一切見せずに、他のものをただ黙って与え続ける親のことだ。

そしてそれを全部忘れずに、のちのちまでも子どもに感謝を強いて思い通りに扱う

道具にしようとする親のことだ。

(これは無意識でも意識してやるのとまったく同罪である)

 

そのような親の与える愛は、まさしく「本物そっくりなニセモノ」の鳥、ということに

なるんじゃないかな。

ところで笑顔と言ってもいろんな種類がありますよね。

 

恐怖で引きつった笑顔、怒りのあまりの笑顔、泣き笑いの笑顔、媚び諂いの笑顔。

 

要するに「うその笑顔」これらは想像以上に子どもを毒するので、やってはいけない。

子どもは嘘を秒で見抜きます。

動物も同じです。

 

見抜けないのは悲しいかな、ニセモノの愛情を本物と思い込んでいるような大人だけなんである。

 

   さびドラ

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