さびブログ@アラ還毒親持ちの日々

それでも絶対幸せになれる。

子どもは親をどう見ているか

子どもの本心

親にとって子どもが何を考えているかを知るのは意外と、至難の技である。

ここで「意外と」と書いたのは、逆に自分の子どもの内面は、何から何まで知り尽くしている、

と考えている親が多いように思うからだ。

特に母親は、この傾向が強い(ように思う)

生まれ落ちた瞬間から世話をしてきた記憶がそう思わせるのだろうが、それもせいぜい幼児期までのこと、思春期ともなれば

自分の子どもを一番、知らないのが案外親だったりもする。

 

学校から呼び出しが頻繁にあったり、成績が目に見えてガタ落ちしたり、不登校になったり、といったわかりやすい子どもは別として、

淡々といつの間にか「大きくなりました」といった子どもに対しては、幼児期そのままの「我が子像」をイメージしつつ

接し方を変えようとしない親が多い。

 

もちろんその中には毒親も含まれるけれど、無害な親の元でもこういう子どもは育つから、

親子の間には静かな「なんでもない関係」が築かれる。

 

そうした子どもにとって、親とはまさに、「なんでもない存在」なんであって、好きとか嫌いとか

意識するまでもない、

ただそこにいる人

なんだと思う。

 

私は実に、これが理想的な親子のあり方だと考えている。

 

もういい年になってるにもかかわらず「親が大好き」という人は注意したほうがいい。

逆に言えば「私の子どもは私を大好き」だと信じている親は自分の毒性を疑ったほうがいい。

以前も書いたけれど子どもにとって理想の親とは、

普段その存在を意識されない、もしくは意識しなくても大丈夫、という

安心感を与えてくれる親である。

 

故郷は遠くにありて思うもの

昭和のにほい芬々たるこの美しい言葉の中には、そこにいつも「淡々といる」親ももちろん

含まれていることだろう。

 

成人した子供との接点は、そのくらいがいい。無視されるくらいがちょうどいいのである。

もちろん寂しさはある。けれどその寂しさを耐えてこそ、親は子どもを本当に愛している、

と言えるのではないだろうか。

 

自分の子には親に対して割かねばならないエネルギーを、自分の人生に振り向けて欲しい。

それでなくても生きていくのに大変な世の中である。エネルギーは1ミリでも、無駄遣いするなよ。

私は大丈夫だから。まだまだ死なないからね!

 

・・・と、私は嫁いでゆく娘に伝えたいのである。

 

最後に

子育ての訓戒?としてこれは有名な言葉なので知っている方も多いとは思うが

どうしても書きたくなったので書くことにする。

十戒までないのが残念なほど、

私の大好きな、本当に大好きな言葉である(いつも思い出すと泣きたくなるのよね)

 

(母親は子どもが)

乳児期には、肌を離すな

幼児期になったら肌を離して、手を離すな

思春期になったら手を離して、目を離すな

青年期以降は目を離して、心を離すな

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以上です。読んでくださりありがとうございました。

 

   さびドラ

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自分だけのハッピーエンディングノート(極秘)

引き寄せの記事で、未来の自分から今の自分へのメッセージについて書いたけれど、

実際の私は特に、未来に望む具体的なこともなく、穏やかな今の状態が続くことを願っている。

人生の折り返しを過ぎて10年以上も経つと、南の島での自由な休暇に憧れるよりも、

1日1日の「今、ここ」を、

いかに充実させるかの方に興味がある。

そしてもちろん、願うのは愛する人たちの健康と幸福である。

 

二人の娘たちはとっくに独立して家を出て、一人は間も無く結婚式を挙げる。

家を出たのはもう一年近く前、コロナで緊急事態宣言が発令されたその日に入籍した。

もう一人は少し離れた地域で医療従事者として働いている。

どちらも大切な私の宝物。ラインのやりとりはある日もない日もあるけれど、ただ健康で無事でさえあればいい。

子育てに多くを望んだのも遠い昔の日となった。

 

例えば10年先の未来に望むことを設定したとして、人生はその後も続いてゆく。

塞翁が馬の喩えの如く、何を望んだとしてもそれが本当に「いいこと」なのか、それとも

逆にその後の人生に悪いタネをまく出来事なのかは誰にもわからない。

 

ならばいっそ、焦点を臨終の瞬間に定めてやろうと思い立った。

そこでタイトル、ハッピーエンディングノートです。

 

ところで皆さんは、どんな死に様で人生を終えるか、を想像したことがおありですか?

10代20代のコドモにそれを想像しろと言っても無理だろうし、30代40代でも無理な気がする。

私なんぞ50代になってもまだまだ上を見て悪あがきを続けていたような気がするし、人によっては

7080になっても「前向きに生きることだけに焦点を当てて」頑張っていらっしゃる方もいるだろう。

 

だがしかし、人間は等しく皆死を迎えるのである。

これで終わり、を悟った日に、走馬灯のように頭を巡るであろう想い、、、

 

私はこれを引き寄せようと思う。

 

第一に愛する娘たちの人生が、その段階でまあまあ幸福に満たされているのを確信できること。

第二に、死後自分の意識がどうなるか、を恐れずにいられること。

そして願わくば、脳内エンドルフィン?の作用が理想的にフル回転していて、苦痛を感じないで済むこと。

 

意識が薄れてゆく中で、娘たちには伝えたい。

私がいなくなってもあまり悲しまないように(少しは悲しむように)。

 

そして、家族を大切に、自分の人生を思う存分生きてください。

このことをノートに書こう。

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なんだかな、あまりにもありきたりで平凡な気もするが、どう想像しても私、

これ以上の望みってないような気がするんですよ。

 

死の瞬間に思い残すことなく満足していられるって、究極の幸せだと思いませんか?

 

忘れていた。その時夫はどこにいるんだろう?

あの世で私を待ってくれているのだろうか、それともまだ、未練がましくこっちの世界にいるんだろうか?

 

 

 

    さびドラ

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エーリッヒ・フロム「愛するということ」より

愛の種類

この本の冒頭だったか、別の本だったか記憶が定かでないが、

「同じ木の枝に止まっているそっくりな2羽の小鳥」になぞらえて、2種類の愛について語っている文章がある

「どちらも同じようにさえずり、同じように身繕いをする。同じ声、同じ羽。けれどその内面は天と地ほど違っている」

要は本物は一羽だけで、もう一羽はそっくりなニセモノというわけ。

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一方的に相手に愛を与えたつもりであっても、受ける側が苦痛であれば

それは愛ではない。

男女の仲なら相手が嫌がっていることが容易に伝わるけれど(違うかな)、親子の間ではそうはいかない。

子どもは親の、ニセモノの愛を見抜けず、苦痛を声に出す術を知らない。

親は子どもを愛しているつもりで、実は自分自身を愛しているだけ、という場合があまりにも多すぎる。

 

この有名なフロムの本を私が読んだのはもう何十年も前で、しかも本棚から掘り起こそうとしても

どこへ行ったかわからない。なので、うろ覚えで間違いだらけの内容となったら問題なので、

一応ググってみました。

 

大まかには

「本物の愛はもともと、人間に与えられた衝動ではなく、時間をかけて育み獲得してゆく技術である」

と、いうようなことが語られていた。

 

害になる親

その中で一定のページを割いて、母親について語られている部分があるのだが、最も子どもに害を及ぼす母親とは、

子どもの前で笑顔を見せない、不幸な(不幸そうな)母親

である、ということだ。

子育てを成功させたかったら何がなんでも幸せでいろ、ということらしいが、これって子育て真っ最中は

非常に難しいと感じる人も多いのではないだろうか。

私の考えでは四六時中笑顔でいろ、というより(それは無理ゲーだし)

子どもと一緒に1日に一度でもいいからただ、笑いあえればそれでいい、と思う。

 

子どもの目をしっかり見て、笑ってあげる

仕事や雑事、家事に翻弄されて、余裕がまったくないような日常でも、ふと子どもに目をやれば、

そこには何かしら笑える要素がある。

どんな親でも「よく見れば」愛を感じるような何かしらを、子どもは持っている。神様がそう作っておられるのだ。

 

子どもが何かやらかした、ふとした瞬間を捉えて、心から笑ってあげる。

愛情を込めて、いかにも楽しげに笑ってあげるのだ。そして抱きしめて「大好き」と呟いてあげる。

 

子育ては、それだけでいい。これだけできていればあとは何もしなくても、子どもは生き生きと

のびのびと育ってくれる、と私は思う。

 

そんな余裕さえないわ、というお母さんは要注意である。

私の母親がそうだったからだ。

 

私の母は、幼い私に目もくれなかった。

話しかけても返事はなく、上の空で別のことをひたすら考え続けていた。

学校から帰っても「おかえり」の一言をかけてもらった記憶すらない。まるで私の顔を見たり、

話をすれば悪いことが起きると信じているかのようだった。

それどころか私は母に

名前を呼ばれた記憶すらない。

信じられないと思われるだろうが事実です。

 

もちろん、怒られる時は声高に名前呼ばれたし目も合わせてくれましたよ。それ以外は一切なし、ということです。

一緒にお風呂に入ったことも絵本を読んでもらったこともありません。

(母は完全専業主婦だった)

 

こう書いてると私はよく、ぐれて暴走しなかったなと自分で感心するほどだ、全くのところ。

私はひたすら母の気にいられるように生きてきたが、本来子どもとはそんなことを気にするのが仕事ではない。

子どもは子ども本来の姿でいること「こそが」仕事なんである。

それを認めてやれない親はまず、親の資格が70%ほどどっかへふっ飛んでしまっていることを

自覚した方がいい。

 

子育て成功の秘訣

時には子どもを可愛いと思えなくたっていい。時には大声で罵倒したり叩いてしまうことが

あったって別に、

そのことで自分を責めるにはあたらない(もちろん虐待はあってはならないけれど)

 

忙しいお母さんへ。1日にたった一度、穴のあくほど子どもを見つめてあげよう。

そうすれば必ず「くすっ」と笑える瞬間がくる。

その瞬間をすかさず捉えて、子どもを抱きしめてこちょこちょするなりなんなり、布団巻きにするなり

楽しく笑いあえれば、子育てはまず安泰だから心配することはない。

 

それがフロムのいう「本当に愛するための努力」だと思う。

 

エーリッヒ・フロムの説く毒親とは、不幸な親または不幸な顔をした親。

笑顔を一切見せずに、他のものをただ黙って与え続ける親のことだ。

そしてそれを全部忘れずに、のちのちまでも子どもに感謝を強いて思い通りに扱う

道具にしようとする親のことだ。

(これは無意識でも意識してやるのとまったく同罪である)

 

そのような親の与える愛は、まさしく「本物そっくりなニセモノ」の鳥、ということに

なるんじゃないかな。

ところで笑顔と言ってもいろんな種類がありますよね。

 

恐怖で引きつった笑顔、怒りのあまりの笑顔、泣き笑いの笑顔、媚び諂いの笑顔。

 

要するに「うその笑顔」これらは想像以上に子どもを毒するので、やってはいけない。

子どもは嘘を秒で見抜きます。

動物も同じです。

 

見抜けないのは悲しいかな、ニセモノの愛情を本物と思い込んでいるような大人だけなんである。

 

   さびドラ

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引き寄せの極意

なりたい自分になる

  • なりたい自分をイメージする
  • イメージしたら紙に書く
  • イメージした自分を常に念頭に置いて行動・思考する
  • そのためにさまざまなツール(ノート、ビジョンボードなど)を活用する

はい。私これね、ずいぶん若い頃から実践してました笑

そして現在アラ還。どうなったかと申しますとね・・・

 

(あくまで今の段階ですが)結論から言って、引き寄せの法則は存在します。

人生とは実に、思った通りにことが運ぶものなのであります。

 

・・・散々親のこと毒づいてきてるくせにどの口が言う〜〜などとおっしゃるなかれ。

親は親。例え極めつけの毒の元に育ったとはいえ、だからといって幸せな人生が送れない、

などということは断じてないし、また

あってはならないんです。

そのためには実際問題として、親とは一刻も早く物理的・心理的に距離を置く必要はあるんですが。

↑これがなかなか難しいんですね・・・

 

それはさておき、今現在の私の生活はかつて想像していた通りのものに、ほぼ近づいております。

30代40代は、子育てと仕事に無我夢中。この頃に自分自身の生きづらさの原因が、

育った家庭環境にあることに気付き(毒親、という言葉はこの頃はまだなかった)

そこから複雑な経路を辿りつつ、スピリチュアルに行き着きました。

 

スピと宗教は別物

定義は人によってさまざまだと思いますが、私の中では宗教は学問の一種。スピリチュアルは

この世界をどう捉えるか、という感覚的な手法です。

どちらも人生の本質を捉えていて、真実を伝えるものだと思っています。

大前提として私には、幸福に生きたい、という強い願望があって、若い頃のそれは

主に金銭にまつわる願望でした。

早い話がお金を数えて生きることが苦手だったんです笑

 

そして、歳とともに自分の中での幸福の定義が移り変わっていることに、最近気がつきました。

もちろんお金は大事だし必要。でもそれ以上に、私の感じる幸福には大切な要素がある。

それが「愛」だったんです。

 

人生イコール「愛」

もうこれに、意義を唱える方はよほどのひねくれ者でない限り、いないと思われるんですが😅

これ、たんに人と人との愛に限らず、自分を取り巻く全ての神羅万象、生き物全体、地球全体にまで

広がる愛です。

私の場合、母と関わっている期間、まったくと言っていいほどこの「愛」、、、

漠然とした観念の上ですが、世界に対する、あるいは人生に対する愛が感じられなかったんです。

で、、、母と離れた瞬間、その感覚が蘇ってきます😱

 

毒親、毒家族を制する者は全ての人間関係を制す

たった今思いついた格言?です😅

要は、関わって自分自身が嫌な人からは離れて、遠いところから遠い目で「愛しましょう」

これができれば今世での「ミッション完了」なんではないかとさえ私は思っています。

 

私ら毒親育ちは、そうでない人たちに比べて、生まれながらに圧倒的なハンデを背負っています。

これをマイナスと捉えず、プラスに変えて行く方法があるのではないか。

あまりにも身近にいるエネルギーヴァンパイア、これにいかにして対処するか?

まずは「気づく」ことから始まって、経済的・物理的・心理的な距離を

人生のどの段階で取ることができるか。

 

早ければ早いほど、実はいいんです。

かと言って私は遅すぎる、と悲観することもない、と思います。

この社会に毒親育ちの存在はあまりにも多い。本人が気づいていなくても、表に出なくても、

犯罪級の被害にあってる方々はたくさんいます。

肉体的に抹殺されるだけが殺人ではない。幼い頃から心を弄ばれて殺されたも同然で

生きている人がたくさんいるんです。

 

他人からうける被害には容易に気づけても、まさか親から、まさかそんなはずはない、という

世にも残酷な葛藤を経て、私たちは今生きています。

要は俗にいうぬくぬく育った「愛され育ち」に比べて、まさに鍛えられ方が違うんですよ

人を見る目、本質を見抜く目がケタ違いに発達しています。これを強みと言わずしてなんと言おう?

今現在、曲がりなりにも社会生活を営んでおられる毒親持ちの方々って、私を含め

人間関係のプロフェッショナル

です。

誇りを持ちましょう。

 

引き寄せ

話がそれましたm(_ _)m 引き寄せですね。

巷で有名なYouTuberの方が、こんなことをおっしゃっているのを耳にしました。

 

「未来日記を書こう。特定の未来に自分はどんな状況にいたいか、を

未来の自分になったつもりで、完成形で書いていこう」

例えば10年後に年収〇〇万になっていたい、と想定します。

そして、自分は既にその年収を得ている「10年後の自分」であると思い込んだ状態で、

そこから

今の自分へ向けて日記を書く

というわけです。意味わかります?💦

 

たとえば

「ハロー昔の自分。元気?僕(私)これからバカンスだよ〜寒いからちょっと

ニューカレドニアまでいってくるわ」

「帰ってきたよ〜🙋‍♀️なかなかよかった。仕事詰まってたけどキャンセルして一週間帰国伸ばした。まだ時差ボケ」

「君はこれから出勤?相変わらずの社畜生活大変だね💦でもねすぐに抜け出せるよ!僕が保証するから」

・・・↑てな感じです。自分以外誰も見ないんですから嫌味だっていいんですよ。

そしてこれを繰り返すうちに、だんだんと脳(潜在意識)がバグってきて、現実と未来に対する妄想が

ごっちゃになってきます。

つまり「いつまでも社畜生活抜けられないお先真っ暗で凡庸な自分」という自己イメージが

「将来は南の島バカンス一週間悠々自適なオレ」に、書き変わってくるんです。

 

これを地道に続けていると、やがて

その自己イメージが実現する

というわけです。

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いかがですか?楽しくないですか?

私もね早速、やってみようと思います。

 

ようやく雨上がりました♪

みなさま良い休日を😊

 

さびドラ

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毒家庭(機能不全家庭)で日常茶飯なマウンティング

夫婦の関係どっちが上か?

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このマウンティング、通常は自身の優越性を他者に示すための行為だが、これが日常的に行われている家庭がある。

たいがいは夫婦関係だ。

お互いの親族の出自、学歴、職業、身体的特徴などに基づいて一眼でわかる優越性を持った側が、

一方的に相手にマウントを取り、それが長く続くようになる。

ここで問題になるのは結婚する際に「どっちが請われて(つまり惚れられて)一緒になったか」ということだが、

これが夫婦間のマウント合戦において「優越性を持つ側が惚れたのなら」比較的問題は薄い。

逆の場合は文字通り悲劇となる。私の両親がそうだった。

 

エリートの娘

母はその昔、軍事国家で最高級のエリートとされた海軍将校を父に持ち、しかも見た目が大変可愛らしかった。

敗戦とともに祖父は職を失ったわけだが、育ちとともに培われた母のお嬢様的雰囲気は、

戦後においても職場で大変な人気であり、母の後ろにはゾロゾロと「花婿候補」が列をなしていたらしい(この話を私は物心ついた時から何百万回と聞かされた)

さて、そんな母をめでたくゲットした父は、特にこれといって特徴のない家の出自であった。

ただ学歴だけが一流で「だから他の人よりマシだと思った」と甚だえげつない理由を母は、

普段から平然と父の前で言ってのけていた。

 

母の父つまり私の祖父は、いわゆる3高(死語)を絵に描いたような人で、イケメンで背は高く、学歴は超一流、おまけに

 

大変なモラ男であった。

 

母の生い立ち

母が言うには「24までに嫁に行け。それ以降は家に置かん」と言われ腰を蹴飛ばされるように

結婚したと言うのだが、

母はこの祖父に対する恨みを未だに口にする。

 

祖父は第一子である母が女であることがまず、気に入らなかった。

そして母が長ずるにつれ、母の気質を疎んじ、ことあるごとに馬鹿にして蔑むような態度を取ってきたらしい。

母にとって毒父の典型のような祖父の傍らで、必要以上に母をちやほやと甘やかしスポイルして育てたのが

祖母だった。

 

父親から徹底的に貶められ、母親から徹底的に持ち上げられて私の母は育った。

 

ちなみに祖父と祖母の仲は最悪で、それも一方的に祖母が嫌っていたらしいが、この祖母と

母が例の「仲良し親子」の典型であった。

 

その後、祖母ははや50代で亡くなり、母は大嫌いな父親の介護をしなければならなくなるのだが、

私は父に対する愚痴と不満とともに、この祖父の悪口も聞かされて育つ羽目となった。

ところで私の父という人は、気難しくて皮肉屋ではあったが決して毒父と言えるほどの人ではなかったため、

私が父の悪口を聞きたくないと言えば、

「娘は母親と一緒に父親の悪口を言うものよ!私がそうだったから!!」と一喝された。

 

マウントからモラハラへ

相手に様々な場面でマウンティングすることに飽きたらなくなると、その行為は次第にモラルハラスメントへと移行する。

恐ろしいのはそれが家庭内でだんだんと「至極ごもっとも」な常識と化すことだ。

 

例えば私の家庭で「子どもが父に似る」ことは、最大の悪であった。

特に女の子は父に似たが最後、絶対に幸福になれない(と母は信じていた)

そして、私を自分(母)に似ていると認めた瞬間だけ(滅多になかったが)ご満悦そうに私に

微笑んでくれた。

 

父はこんな女を嫁に欲しがったおかげでなんという人生を送らされたことだろう

(その悲惨な?末路についてはいずれ書く)

 

私は世の未婚男性たちに、声を大にして言いたい、

 

女の価値は見た目や生まれじゃないよ!

運よく高嶺の花を掴んでラッキー❤️となった次の瞬間から、人生とんでもない悲劇が口を開けて待ってるかも。

 

まあなんにしろ、夫婦の間がうまく行くにはお互いのバランスが必要です。

それは側から見てわかりやすい事情でなくても、お互いに相手に感謝できる存在でさえあればいいんです。

で、なければいずれ「不公平だ」と感じた側からマウンティングが始まるかもしれません。

ここで「ヤバイおれ(私)マウンティングされてるかも!」と気づければまだしも、

「なんだかよくわからないけど不愉快だ」(父の口癖)と言いながら、人生終了、となってしまう

ケースって意外と多いんですよ。

 

以上、自身の経験からでした。

 

関東雨が降っています。みなさま、ご自愛くださりませ。

 

   さびドラ

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毒にまみれた潜在意識を掃除する

毒親育ちに共通する意識。それは

「自分は悪い人間でどうしようもない性格で、だから幸せになれない」

というものだ。

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           あかんやん

 

潜在意識に不幸癖がしっかりと染み付いている。

幼い頃から親に虐待され、無視され、話を聞いてもらえずわかってもらえず、泣けば叱られ、

例え褒められても「お前のようなしょーーもない子を褒めてやっている」感丸出しの親に

全力で感謝しなければならない。

心の中には陰鬱なBGMが常に鳴っており、それは心から楽しいと思える瞬間をいつも台無しにする。

長じてかなり、時が経っても私はこれだった。

 

しかしである。これは人間として絶対的に、おかしなことなんである。

なぜなら私たちは人生を楽しむため、幸福でいるためにこの世に生を受けるのであって、

その反対に例え親であれ、「誰かの犠牲になって生きよ」とは命じられていないはずだからだ。

 

スピでもなんでも「親に感謝できなければ幸せになれないよ〜」なんてお気楽なことをいってる輩は蹴飛ばして、

正々堂々と親とは距離を置けばいい。私はそう思う。

 

親の言うことを聞けないような人間の人生は破滅する、と母はいう。

その言葉は呪いのように私にまとわりついた。

しかしどうであろう。母の言いなりになっていた頃の私は不幸の連続で、心はぐちゃぐちゃ、

神経はマヒして少しも喜びを感じられなかった。

 

今になって思う。

親の言いなりになっていては人生は破滅する。

 

共依存関係の恐ろしさ。

幼い頃は私の存在をひたすら無視し、少し話がわかるようになると母はまるで、ゴミ箱のように

私を愚痴の聞き役、母自身の不幸?の慰め役にしてきた。

そして私は、母の言いなりになることによって「しか」母から大事にされているという実感が得られなかったのだ。

 

スピリチュアル的観点から言えば、私たちは親を選んで生まれてくる。

あんな毒親をなぜ、わざわざ選ぶ必要があったかというと、それは多分、一つの学びを得るためだ。

その学びとは、

 

自分の人生は自分で決めよ。例え親でも言いなりになるな

 

と、いうことだ。

私たちは親に洗脳され脅迫され搾取され続けているので、自分で自分の人生を生きてはいない。

親のために親の言った通りに生きなければならないと無意識で思い込んでいる。

毒親は子どもの心をコントロールするために共依存関係を築こうと必死だから、うかうかしていれば

あっという間に私たちは人生の舵取りを、ともすれば親に取られてしまう。

 

そして自分の人生がうまくいかないことを、無意識で親のせいにして生きるようになる。

引きこもりしかり、5080問題しかり、家庭内暴力しかり。

実際は、徹底的に親に反抗・離脱できなかった自分自身に(も)責任はあるのだ。

もちろん、ことはそれほど簡単でないことは重々承知しています。毒親育ちは生きるエネルギーの大半を、

親に吸い取られているも同然なので、いざ反発しようにも力が湧いてこないんだよね。

 

ならばせめて気づいた段階で、少しづつ心のBGMを明るく穏やかな、楽しげなものにして行こう。

外を歩いていて気分のいい時、部屋で一人くつろいでいる時、お風呂に入ってほっとしている時、暖かい布団に包まれた瞬間、

「あ〜〜〜しあわせ」と呟いてみよう。

 

本当、心が親に毒されている時の私はこんなことすらもできなかったんです。

旅行に行ったって景色なんか見てやしない。そこに素晴らしいもの(こと)があっても

無反応。

表面では「綺麗」「素敵」を連発しても、心がついていってない。

こんなことがしょっちゅうでした。

 

実生活でも断捨離が流行してます。心も断捨離していこう。

潜在意識がゴミだらけでは新しい良い運命を呼び込むスペースが生まれないから、まずはゴミを取り除き、

さらにゴミを生み出す根元(親)をも断捨離しなければならない、意識の上で。

 

嫌なことがあった時、無限の負のループに心が落ち込んでるなと感じる時、私は例のマントラを唱えます。

これを唱えれば潜在意識がクリーニングされる。よって人生が好転する。

 

具体的にそれを信じることができる事例が昨夜起こりました。

 

実は38度近くの熱が出たんですが、マントラ唱えて早々にベッドに入りました。

ただ唱えてたのではなくて、それは自分のカラダ、免疫機能、これまで働いてくれていた

すべての筋肉・血管・臓器・神経・それらの全てに感謝と愛情を注いでました。

同時に元気な時には粗末に扱って?「ごめんね」「許してください」とも。

 

朝起きたら熱はすっかり下がっていて、普通に動けました👏

 

・・・これ、奇跡じゃないですか?

たまたま私の体が岩をも砕くほど頑丈にできてるってことだけではない気がするんですが。

 

ちなみに私の毒母はしょっちゅう死ぬ死ぬ言っては子どもの私を死ぬほど心配させてたというのに、

89歳で健在です。ただの一度も重病で入院したことはありません。あと10年は死ぬ気配もありません。

 

私はその体質を受け継いているようです。このことばかりは心から両親に感謝しています。

 

  さびドラ

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子どもにとっての理想の親とは

子どもにとって理想の親とはどういう親か?

一言で言って、それは

普段子どもが、その存在を忘れていられる親

である。

毒親の場合はこれと反対に

終始子どもが、その存在を意識していなければならない。

 

親のほうでは通常の場合でも、子どものことが頭を離れない、というか常に念頭にある、

という人は珍しくないと思うけれど、子どもの側が常に親のことを心配する、もしくは気に掛けていなければならない、

というのは実は異常事態なんである。

 

しかもこれが人生始まって以来、延々と続いている人がいる。

言わずもがな毒親育ち、もしくはAC(アダルトチルドレン)と呼ばれる人たちだ。

 

私の場合、母の存在を忘れている、などということは許されなかった。

もしそうした事態が認められれば、即座に「優しくない、鬼のような娘」と言われ叱責された。

怒られれば当然悲しいから、私はごく幼い頃から健気に母を気遣い、一生懸命機嫌をとった。

すると母はご機嫌となり、

「普段からアンタにはあれもこれもして"やっている"」「感謝しなさい」のシャワーが頭から降り注いで終わる。

 

えっと、、、、娘に対する感謝って必要ないんですかね?

 

母に言わせれば、(普段からよくしてやっている)娘が母の機嫌をとるのは

当然のことだから、あえてそれに感謝する必要なんかない、ということらしい。

ーー〜〜ーーーーーーーー

 

と、いうわけで現在、相当期間距離を置いてる母親から電話襲撃がありました。

曰く「アンタ、あたしアンタの家にお雛様を見に行きたいから迎えに来てくれない?

○○(長女)が生まれた時、アンタにせがまれてお雛様買って『やった』のに、

私は一度も見せてもらってないよ!」

 

はあ!?

 

いや、見せてますやん!!!😱

それも何回も。ぼけたのか!?と思いきや、その他の会話はごくスムーズです。

私はできるだけ穏やかに、お雛様は何回かお見せしていること、そして私は自分の心の平安のため、

しばらく貴方とは距離を置きたいのだ、と何十回目かの説明をしました。

 

現在は弟にその後を任せております。

 

と、いうわけで母のおかげでようやく手に入った心の平安もはや、かき乱されております。

そこで例のマントラ、ホ・オポノポノの4つのフレーズをのべつ、心の中で唱えておりました。

 

・ハワイの問題解決法ホ・オポノポノについて

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最近、ネットの記事で知ったのですが、この手法?オリジナルは若干、違う意味合いのマントラだそうです。

曰く

 KALAMAI(カラマイ)

 MIHI(ミヒ)

 MAHALO(マハロ)

 ALOHA(アロハ)

 

意味は

KALAMAI: 私に光を。もっと光を

MIHI: 私は受けます

MAHALO: ありがとう。感謝します

ALOHA: (こんにちはの意味合いとともに)貴方を愛します

 

・・・いかがでしょうか?

英語でサンキューアイムソーリーなどとやるのもいいけれど、日本語の

ごめんなさい許してください・・・

なぞと比べても、なんかほっこりして唱えやすいと思います。

 

ハワイ語ってよく知りませんが、日本語と同等レベルに音的に柔らかく心を癒してくれる

効果があるそうなんですよ。

特に道でばったり会った誰かに「アロハ!」って言うだけで、

「こんにちは、愛しています」と伝えることができるなんて、素敵だと思いませんか?😊

 

もうね、私これをほんと〜〜によく唱えます。

安くて簡単で、どこでもやれるし始められる、とびっきりの解毒法だと思っています。

 

人生を好転させるにはまず、潜在意識を綺麗に掃除しておかなければなりませんからね!

 

  さびドラ

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