ちょっと待て。その言葉真実ですか!?
(今週の)お題とはまったく関係のない記事になりますが汗
死に体のブログになんと、読者さまが!😱💦
・・・
本当にありがとうございます🙇♀️半分投げ出しておりましたが今朝、久々に思いついたこと、
以前から気になっていたことを書こうとおもいます。
巷でよく、こういう方がおられます
「世界で一番、尊敬する人は両親。世界で一番、好きな人は母(父)です」
いや。別に人それぞれ好みはありますが😅
好みの問題じゃない?まあそれはおいといて。
なんなんですかね?子どもに「世界一」尊敬されるご両親ってのは、いったいどんな方々なんでしょうか?
私にはむしろ、そう言わざるをえないお子さん?の立場、例え自発的に言っているにしろ、
そういう発想がなされる背景となった親子関係を思いやるたびに、暗たんたる思いに囚われるんですが。
もう一つは
「お母さんとはすっごく仲良くてぇ〜、大親友なんです〜。もう、大っ好き!」
なんて言ってる若い女性。いや若くなくても、わたし世代でも時々こういう方いらっしゃいます。
最も、わたし世代ともなりますと大抵、その大親友たる母親は介護状態なんですが。
もう毎日のように母親のもとに通い詰めるんですね、夫も他の家族も放り出して。
断っておきますがわたしは何も、それを悪いと言っているわけではありません。
最初に言った通り、まさに好き好きですので。
ただし、わたしはこれらの言葉の奥に、非常に深い闇を感じてしまうのであります。
悲しき毒親育ちの習性とでも言いましょうか、その、尊敬される、もしくは「大親友」たる
母親の無言の「圧」アツ、圧力、強烈なる「毒」の存在を感じてしまう。
そもそもですね、私の二人の娘たちがどこぞでこのようなことをほざいていたとしたら、その場で私は
「子育て失敗や!」思いますね、いや万が一にも彼女たちは、そのようなことは言いませんが。
「親のことは尊敬しています。誇りです」
↑これはいいんですよ。立派なご両親さまなんだろうな、と素直に思えます。
羨ましい限りです。
「お母さん?別に普通。時々一緒に出かけたりするし」
↑これも全然アリだと思います。
問題は「世界一尊敬」「大親友」この、仰々しい盛った表現を、
自分の親に対して使う神経
これを疑うのであります。
言葉を盛るのは毒親の特徴の一つでもあるので、もしやこの方々は、ご両親の特質をそのまま
引き継いでいるのではないか?
とまで疑いたくなってしまうわけです。
そうなると、毒親問題はそのまた子どもへと引き継がれます。
問題は当の大親友親子を完全スクロールし、場合によっては毒を増強させてその子、または孫を直撃します。
(折もおり)不謹慎な表現でしたら申し訳ありませんが、これ、津波の原理と同じで下へ行けば行くほど問題が
溜め込まれて大きくなるんですよ。
毒親というのは一世一代で出来上がるわけではなくて(そういう場合もあるかもしれませんが)
大抵は親の親、そのまた親も毒だったりするわけです。
巷で有名な毒親カウンセラーの方に、「昭和世代の敗戦の記憶が毒親問題の根幹である」というようなことを
言っておられる方がいますが、それを言うならいつの時代にもその時代特有のトラウマと
言えるものはありますよね。
江戸時代には江戸時代の、令和には令和の生きづらさが存在するのを考えると、
時代が生み出すものとして毒親問題を捉えるのはいささかナンセンスな気もいたします。
さらにこれは民族特有のものでもない。表現や程度こそちがえど、古今東西どこにでも存在する問題だと考えます。
私たちがこの世に生を受ける、それが血の繋がりを介してのみ可能である限り。
余談ですが私は、現家族には恵まれているとはいえ、二人の娘たちに血の繋がりを意識することは
ほとんどありません。
「娘だから可愛い」のではなく(もちろんそれもありますが)、「人間として可愛い」この感覚が
より強いと思います。
これもまた、あまりにも強い毒の元に育ってきた人間の悲しいサガなのかもしれません😅
血の繋がりって実は、意識すればするほど問題を生み出すような気ってしませんか?
例えば私たちがペットの動物を愛する時、それは血がつながっているからではないですよね?
中世のお屋敷では子どもは母から話して乳母に育てさせる慣習があったようですが
あながちそれは悪いことばかりではなかったような。。。
自分の子を自分で育てる、私たちにはその幸せを享受する権利が与えられている一方、
時として「当たり前」になっている血の繋がりに対する意識が、実は諸刃の剣であるという認識は
持っていた方がいいような気がします。
長くなりました。
読んでくださりありがとうございますm(_ _)m
さびドラ