さびブログ@アラ還毒親持ちの日々

それでも絶対幸せになれる。

ちょっと待て。その言葉真実ですか!?

(今週の)お題とはまったく関係のない記事になりますが汗

死に体のブログになんと、読者さまが!😱💦

・・・

本当にありがとうございます🙇‍♀️半分投げ出しておりましたが今朝、久々に思いついたこと、

以前から気になっていたことを書こうとおもいます。

 

巷でよく、こういう方がおられます

「世界で一番、尊敬する人は両親。世界で一番、好きな人は母(父)です」

いや。別に人それぞれ好みはありますが😅

好みの問題じゃない?まあそれはおいといて。

 

なんなんですかね?子どもに「世界一」尊敬されるご両親ってのは、いったいどんな方々なんでしょうか?

私にはむしろ、そう言わざるをえないお子さん?の立場、例え自発的に言っているにしろ、

そういう発想がなされる背景となった親子関係を思いやるたびに、暗たんたる思いに囚われるんですが。

 

もう一つは

「お母さんとはすっごく仲良くてぇ〜、大親友なんです〜。もう、大っ好き!」

なんて言ってる若い女性。いや若くなくても、わたし世代でも時々こういう方いらっしゃいます。

最も、わたし世代ともなりますと大抵、その大親友たる母親は介護状態なんですが。

もう毎日のように母親のもとに通い詰めるんですね、夫も他の家族も放り出して。

 

断っておきますがわたしは何も、それを悪いと言っているわけではありません。

最初に言った通り、まさに好き好きですので。

ただし、わたしはこれらの言葉の奥に、非常に深い闇を感じてしまうのであります。

悲しき毒親育ちの習性とでも言いましょうか、その、尊敬される、もしくは「大親友」たる

母親の無言の「圧」アツ、圧力、強烈なる「毒」の存在を感じてしまう。

 

そもそもですね、私の二人の娘たちがどこぞでこのようなことをほざいていたとしたら、その場で私は

「子育て失敗や!」思いますね、いや万が一にも彼女たちは、そのようなことは言いませんが。

 

「親のことは尊敬しています。誇りです」

↑これはいいんですよ。立派なご両親さまなんだろうな、と素直に思えます。

羨ましい限りです。

「お母さん?別に普通。時々一緒に出かけたりするし」

↑これも全然アリだと思います。

 

問題は「世界一尊敬」「大親友」この、仰々しい盛った表現を

自分の親に対して使う神経

これを疑うのであります。

言葉を盛るのは毒親の特徴の一つでもあるので、もしやこの方々は、ご両親の特質をそのまま

引き継いでいるのではないか?

とまで疑いたくなってしまうわけです。

そうなると、毒親問題はそのまた子どもへと引き継がれます。

問題は当の大親友親子を完全スクロールし、場合によっては毒を増強させてその子、または孫を直撃します。

(折もおり)不謹慎な表現でしたら申し訳ありませんが、これ、津波の原理と同じで下へ行けば行くほど問題が

溜め込まれて大きくなるんですよ。

毒親というのは一世一代で出来上がるわけではなくて(そういう場合もあるかもしれませんが)

大抵は親の親、そのまた親も毒だったりするわけです。

巷で有名な毒親カウンセラーの方に、「昭和世代の敗戦の記憶が毒親問題の根幹である」というようなことを

言っておられる方がいますが、それを言うならいつの時代にもその時代特有のトラウマと

言えるものはありますよね。

江戸時代には江戸時代の、令和には令和の生きづらさが存在するのを考えると、

時代が生み出すものとして毒親問題を捉えるのはいささかナンセンスな気もいたします。

さらにこれは民族特有のものでもない。表現や程度こそちがえど、古今東西どこにでも存在する問題だと考えます。

 

私たちがこの世に生を受ける、それが血の繋がりを介してのみ可能である限り。

 

余談ですが私は、現家族には恵まれているとはいえ、二人の娘たちに血の繋がりを意識することは

ほとんどありません。

「娘だから可愛い」のではなく(もちろんそれもありますが)、「人間として可愛い」この感覚が

より強いと思います。

これもまた、あまりにも強い毒の元に育ってきた人間の悲しいサガなのかもしれません😅

 

血の繋がりって実は、意識すればするほど問題を生み出すような気ってしませんか?

例えば私たちがペットの動物を愛する時、それは血がつながっているからではないですよね?

中世のお屋敷では子どもは母から話して乳母に育てさせる慣習があったようですが

あながちそれは悪いことばかりではなかったような。。。

 

自分の子を自分で育てる、私たちにはその幸せを享受する権利が与えられている一方、

時として「当たり前」になっている血の繋がりに対する意識が、実は諸刃の剣であるという認識は

持っていた方がいいような気がします。

 

長くなりました。

読んでくださりありがとうございますm(_ _)m

 

さびドラ

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毒親育ちが親の毒から自由になるには

毒親から自由になるには、何をもってして成功とするか?

それは、親を憎んだり、嫌ったりすることではなく

 

「親に無関心になる」

 

と言うことだと思う。

もちろん、物理的に親子であるからにはまったく連絡を取らない訳にはいかない、という場合もあるだろう。

自分にとってひどい親でも、娘や息子つまり毒親から見ての孫に対してはまず、無害ということだってあるし、

止むを得ず付き合わなきゃならない場合もある。

ここで親の言動にいちいち反応することなく、平然と「見知らぬ他人」のような目で、親を見ることができれば成功である。

あなたはめでたく、自分の人生を生きることができる、と言える。

私の場合寝ても覚めても、母親のことが頭を離れない時期が確かにあったし、これは一般的にどう見ても異常な状態と言えるのだが、

しかしどうしたらこの観念的束縛から逃れることができるのか、皆目わからなかった。

親と物理的に距離をとっても、連絡を一定期間絶っても変わらなかった。

 

万策尽きてとった方法がハワイ式セルフ・アイデンティティ・メソッド

ホオポノポノ

なんである。

 

ここでいきなりスピ系へと変身しつつあるこのブログの今後のために、このメソッドの効能が

どのような原理で働くか、私なりの見解を述べてみたい。

 

まず最初に、何はともあれ例の、4つのフレーズをのべつ幕なしに唱えることが推奨される。

日常的にのべつ幕なしに、である。

 

ありがとう

愛しています

ごめんなさい

許してください

 

いわばマントラのように、気がついたら唱える、ひたすら唱える。

 

すると次第に、何が起こるかというと、

まず、頭の中の思考が鳴りを潜めてくる。

そりゃそうですよね。

目の前にある重要事項を処理する場合の他は、のべつ「ありがとう愛してます云々」とやってる訳だから、

脳内に他のこと考える空きが生まれない。

実はこれが大変重要なミソなんである。

どういうことか、というと、私たちの目の前に繰り広げられているこの人生、この不可解かつ

暴力的かつ予測不可能であり神秘に満ち満ちてるこの人生とは、

なんと、

 

自分の中で再生し続けている記憶の産物

 

だというのである。

 

人生とは各自の記憶によって刻一刻と再生し続けられている映像を、これ以上ないほど精密な立体的フルスクリーンにて

鑑賞し体験している実態のないストーリーであり、それ以上でもそれ以下でもない

 

このことを、完膚なきまでに腑に落とすことができるかできないか、に

成功の鍵はかかっている。

 

巷で大人気の「引き寄せの法則」なんかもこの理論に基づいて、人生にちゃっかりいいコトばっかり引き寄せちゃおう♪

という訳なんでして、

なんでそんなことができるかといえば、人生は記憶が再生されている場にすぎないんだから

これを思考に置き換えて?コントロールしちゃおう♪ ってことですね。

しかし、私に言わせれば(私じゃなくてもですが)この引き寄せ、実はやってみるとすぐに、言うはやすく行うは・・・

てなことに気がつきます。

 

そうです、思考をコントロールするって実は暴れ馬を乗りこなすよりも大変なんです

😱

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もっといえば、例えば私たち毒親育ちのように、幼い頃より親の手で自己肯定感をめっちゃ破壊されまくって育って来たような人間は、

気がつくと人生に対して愚痴やら怒りやら呪詛やらを唱えるように思考が訓練?されちゃっている訳です。

つまり、そのような思考に見合った人生が延々と再生され続けている。引き寄せの本を読みあさって

「いかんいかん!これではいかん、またマイナス思考じゃ」なんて一時的に訂正したって、

疲れてコーヒー飲むほんの少しの間にも、気がつかないうちに

「まーったくあいつは・・・女房は・・・うちの親は・・・」

とか、もうこれってほとんど自動的、無意識レベルでやってるわけだから、自分じゃ気がついてないんです。

 

その間も時は刻々と進んでいき、記憶(思考)は刻々と人生を形作ります。

もう自動的に。だから私たちは「人生ってコントロールできない」って思い込んじゃうんですね。

 

さて話をホ・オポノポノに戻すと、

 

4つのマントラを唱えている間は、少なくとも記憶が再生されない。

つまり思考はゼロ状態。

つまり、その間はマイナスな人生が形作られる要素が排除される「時間稼ぎ」ができるというわけである。

そればかりではない。

これはこのメソッドの一番重要な「ウリ」なんだが、このマントラ、実は

「潜在意識にたまった辛い記憶やその他、もろもろのゴミカスを消去(クリーニング)してくれる」

というのである!

 

すげー言葉じゃん・・・

それがもし、本当だとしたら、今まで受けた虐待やらPTSDの元になってる辛い体験なんかも全部、

蘇らないようにクリーニングしてくれるのかなー

なんて、私は思ってしまうのであります。

もちろん体験の深刻さにもよるだろうが、時間かけて記憶を綺麗にクリーニングしていけたらすごい

ことだよね。

誰かの役にたってくれればいいな、と心から思う。

 

もちろん私の記憶も消去していこう。

 

自分にご褒美・・・

 ものすごくサボっていました笑

なぜというに、この年で改めてブログ書こうと思い立って初めてみたものの、日々の雑事が

立て込んで来るとあっという間に思考がはちゃめちゃ状態に陥り、たった今自分が何を

しようと思っていたかさえ忘れる始末なのであります。

と、いうのは実は言い訳で、あまりの閲覧回数の少なさに😱げっそりしたのも事実。

要は根性がないのか、見てもらうに必要なスキルが足らんのか。

たんに才能がないんだろうなーなんて溜息しつつ、それでも久しぶりに書いてみようと思います。

多分私のような人は決して珍しくないのだろう、と自分を励ましつつ・・・

さて、開いてみるとお題が目に入りました。自分にとってのご褒美。

 

幼い頃はもちろん、親の笑顔。

しかしそれは私に与えられなかった。

もう良い年こいた老年に差し掛かる今、自分にとってのご褒美とは、

なんでもない日常

↑これに尽きると思います。

 

だってね、毒親に支配された毒家庭に育ちますとね、毎日が戦争状態なんですよ。

母というのがものすごく神経過敏、今でいうHSPかな?

おまけに自己愛性パーソナリティ症候群の気もあってか、常に人の目、特に親族の評価を

必要としている。

それもたんに「良い人」の評価では飽き足らず、他人に

過剰な感謝を求める

のです。

しかし、ちょっと考えればわかるように、人が人に感謝されるって状態が常日頃から続くって

そうそうあるものではありません。

すると母は鬼の形相となり、私に向かって

「誰々はこんなによくしてやったのに感謝しない。

あれもこれも(私は)したのに、感謝されない。

それどころかこんなことやあんなこと言われた!私は不幸だ。お前、私の話を聞きなさい」

私の青春は(青春をとっくにすぎてからも)こんな母の不幸話の聞き役、そして慰め役でした。

 

をい!そもそも、それって不幸と言えるのか!?

・・・・

 

もちろん答えはNO

これを私は、長いこと母に言えませんでした。

 

お母さん、あなたは自意識過剰です。周囲の人の目を気にして四六時中不機嫌で神経ピリピリ

させてるなんて、普通の状態ではありませんヨ☝️

しかも自分はぬくぬくの専業主婦、一銭だってお金稼いだ試しはなくて、ただ自分の評価のためだけに

四苦八苦できるなんて、自分の境遇に

「あなたこそ感謝しなくちゃ!」

 

なんてことを一言でも言おうものなら、たちまち罵詈雑言が飛んできます。

曰く優しくない娘だ、恐ろしい娘だ、育て方を間違った。お前は父親に似ている。

私に似てないからお前はきっと不幸になる云々

 

最後の2つが今でも思い出すとめちゃハラが立ちます笑

 

そこで(長くなりました)

私は最近、以前のブログに書いたマントラをひたすら繰り返していました。

これがまさに自分に対するご褒美。

なぜというにほんまにね、心落ち着くんですよ。嘘みたいな話ですけど・・・

 

実を言うと私は母との接触は極力避けています。

 

実家に帰るのも年に数えるほどだし(車で40分ほどの近距離にかかわらず)もう、88にもなるので

さすがに電話は週一くらいの間隔でしますが、

基本的に3歳下の弟(これは私と違って猫可愛がりされてきたので母親大好き)に

日常の見守りは任せています。

30代で母親を「毒」認定して以来、何度かカウンセリングも受けたけれど、いつも言われるのは

「母親と距離を置きなさい」

でも、これがなかなか難しかったんですよね・・・

いつも決心して距離を置こうとするも、一定期間過ぎると必ず、どちらともなく接近して

いつもの会話のパターンが始まる。そしてお定まりの大喧嘩。

 

もうこれ、何百回とやってきました。

 

そして考えたんです、なぜ私はこうも、母親と離れることができないのか?

 

理由はね、実に簡単なこと。

 

罪悪感なんです。

 

恐ろしや罪悪感。

これ、人生を不幸にするベスト1か2に入る心理状態だそうです(おそらく)

そしてね、毒親というのはこれを実に巧みに利用するんですよ。もう、罪悪感で子どもを

コントロールするスペシャリストです。

 

私はこの問題を解決するために実に百冊近くの本ーー毒親関係のみならず、心理学、精神医学、そしてスピ関係ーーを読み漁りました。

 

そして今、齢60にしてたどり着いた結論から申しますと、

この罪悪感、消そうと思っても消えるものじゃないってことです。

ようはですね、持ってて構わないんですよ。

肝心なのは「そいつ(罪悪感)に悩まされないこと」だと思うんです。

スピでも引き寄せでも心理学でも親子問題でも必ず言うことだと思いますが罪悪感って百害あって一利なしだから

とっとと捨てるように。

捨てられないならカウンセリングに行け、それ持ってる限り幸福にはなれんぞ、てなことだと思います。

 

けどね、捨てられませんよ。

なぜならもともと、人を傷つけないためだかなんだか、この罪悪感ってしっかり人の心にプログラミングされてるんですから。

親に対する罪悪感だけ捨て去れって言ってもね、そう都合よく切り取ることができない。

人類全体に対する罪悪感キレイに捨て去っちゃったら、たんなるサイコパスになっちゃう。

罪悪感との戦いってのは消耗する無駄足だってことに気付きました。

 

半ばやけくそになった私は、ブログ書いたおかげで思い出して例のマントラ「ホ・オポノポノ」

 

愛してます

ありがとう

許しておくんなまし

ごめんよ

(ちょっと違う😱)

 

↑これ繰り返してました。

 

するとね、なんと!

罪悪感が気にならなくなったのですよ👏

 

おかげでめでたく、なんでもない日常が手に入りました、否、入っています今のとこ。

 

これ、紛れもなくご褒美です!

 

しっかし、しょぼいご褒美だなーーーなんて、思います?

 

若いのう。🍵

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    さびドラ

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毒親育ちが日々を穏やかに暮らすために。ホ・オポノポノの活用

さびドラです。

巷には「毒親」「毒親育ち」という言い方について疑問視する声や、それは一種の逃げであり

人生うまく行かないのを何でもかでも親のせいにする卑怯な考え方である、という

意見があります。

 

ある意味正しい見解だと思います。

私自身、「毒親」というワードを連発しながら何となく、イヤ〜な気分にならないといったら

嘘になるし、毒親育ちに至っては実に、言い逃れや言い訳に便利な言葉だよなあ、などと

感心しながらやはり、この言葉を連発しています。

 

それはなぜかと言いますと、私たち(あえて私たちという)幼少期に親から何らかの

傷を受けて育ったと自覚している人間は、そうでない人たちと比べて圧倒的に

精神的・肉体的ハンデを負って生きているのは事実だからです。

 

 

身体的に何らかの障害を負っている方々が、その障害を自覚せずに生きていくことは

ほぼ、不可能だとお察しいたします。

表現が不適切であったらご容赦願いたいのですが、例えば見た目が明らかに「普通と違う」場合、

他者との関わり方も普通とは違って当たり前ですよね。

ところが毒親に育てられた人というのは、精神的なダメージを負っているにもかかわらず、

見た目も精神も一見すると(一見するとですよ)普通と変わりないのです。

ハンデを負っているにもかかわらず、社会的には毒なしの無害な親御さんに育てられ、

幸福な子ども時代の記憶を持っている方々と同じステージで戦っていかねばならない。

これは残酷な事実です。

毒親に痛めつけられて潜在的に病んでいる人が、健全な人の集まりとされている社会の中で、

違和感や疎外感、愛情の欠乏感などと日々、向き合いつつ、生計を立てるために

一刻の猶予もなく働き続けるのは容易なことではありません。

 

時にはドロップアウトして休みたい、と思っても、家事や仕事、諸々の雑事は

待ったなしで襲ってきます。

気がつくと重度のうつ状態に陥っていたり、甚だしくなると○殺願望まで出てきてしまう。

 

これは男女、年齢関係ないし、もっと言えば古今東西関係ないとまで私は思っています。

 

それほど深刻な「毒親問題」ですが、

私たちは自分の中に重苦しく抱えているこの問題について、日々じっくりと向き合う時間がありません。

悲しいかな忙しすぎるのです。

多くは学生、または社会人、家族を持ち母親や父親であり、もっと言えば当の毒親を

介護していたりする。

自分の人生はどうしてこうなんだろう、自分は一生、この憂鬱な日々から抜けられないのではないか、

考えてみれば幼い頃からこうだった(ような気がする)

要は自分は不幸なのだからこのまま不幸でいるしかないのだ、

と、思考は堂々巡りを繰り返し、あっという間に本当に「終わりの日が来る」

 

人類の歴史が始まって以来、人生とはそんなものかもしれません。

 

いくら考えても解決しない。なぜなら失った子ども時代、失った若い日々は取り戻せないし、

求めても与えられないもの(ここでは親の愛情)を求め続けていても仕方がない。

ないものはないのである。

そんなことは百も承知で、でもそれが欲しかった。

優しい親が欲しかった、と、堂々巡りは続きます。

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こんなお母さん欲しかった

そんな時私は一冊の本に出会いました。

それがこれ

たった4つの言葉で幸せになれる!心が楽になるホ・オポノポノの教え | イハレアカラ・ヒューレン, 丸山あかね | 心理学 | Kindleストア | Amazon

 

いきなりスピかよ?

はい、すみません🙇‍♀️

でも少し聞いて欲しいのです。

「今」苦しい時。「今」悲しい時。「今」この気持ちを何とかしたいと切に願う時。

これ、まじで

気持ちが落ち着くんです。

 

よくマントラって聞きますよね?

心が乱されないように、ある一つの「音」を繰り返し心の中で唱えるって、あれです。

瞑想状態に入る前の段階とか、たんに集中したいときなんかも唱えるそうです。

唱える言葉は何種類かあるそうなのですが、ここに紹介されている

 

      ありがとう

      ごめんなさい

      許してください

      愛しています

 

の、4つのフレーズをのべつ幕なしに心の中で唱えまくっているうちに、

不思議と心は落ち着いて、真っ暗に曇った空に薄明かりが差してくるような、

そんな不思議な感覚が訪れます。

 

そして「今この瞬間」やらなければならないことが明確に判断でき、集中できるようになる。

これを連続させることで、うまくいかなかった人生が

ゆっくりと好転し始める、というわけです。

 

実際、やり始めはもちろん簡単ではありません。

マントラなんぞ怪しすぎて信用できるかいっ!って思われる方がほとんどでしょう。

でも、実際この言葉たちがどうして、どういった作用で人生に影響を及ぼすか、

そのメカニズムは、一応解明されています。

一番大切なのは効力が証明されていることです。

 

実際にこの私が、30代から親との関係に悩み、生きづらさゆえ読み漁った

スピ関係の書物の中で、信用するに足りるものであると思っています。

 

ただし知りはじめは確かに胡散臭いと思いました。

 

特にマントラの中の

「許してください」

(英語だと please forgive me です)

自分悪くないのに誰に向かって許しを乞うんや?ふざけるな!と思ってしまいそうですが、

これは誰かに向かって言うのではなく、自分の中の根源的な罪悪感(毒親育ちは特に強い)

に向かって言うのだと、私は解釈しています。

 

そして最後の「愛しています」(I Love You)ですが、

実は、この言葉だけでも絶大な効力があるとされています。

心の中で「愛してる愛してる愛してる」と繰り返しているだけで

心が晴れてくるって信じられます???

 

・・・なんかおかしな人ですよね?

実際、誰かに聞かれたら確実に引かれるし、人によっては交番に連れていかれるかも😱

ですから絶対に、声に漏らさないように唱え続けなくてはならないんですが、

これができるなら速攻、試していただきたいと私は思います!

なぜと言えば一銭のお金もかからないし、例え効果が実感できなくても

決して損することはないからです。

 

しかも、得した、と感じることは、続けていれば必ずあります。

ちなみにこれは、表面的に唱えるだけでは痛い時に飲むアスピリンみたいなもので、

確かに効き目はありますが根源的な解決法にはなりません。

それでも痛い時には「痛みを自覚し」一刻も早く痛みを止めるための対処をしなければ

なりませんよね?

痛みがおさまって、とりあえず人生を続けていけると感じるならそれもよし、

それでは満足できないから、さらに問題を掘り下げていこうとするならそれもよし。

 

とりあえず今は、自分を守りましょう。

 

それ以上に大事なことって、人生にはないと私は思っています。

 

 

             さびドラ

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生きていてもなんだか楽しくない時は、親との関係を見直してみる

生きていて楽しくない。

なんだかいつも、自分は損をしているような気がする。

そういう人は一度、自分が毒親育ちではないか、疑ってみましょう。

 

親を毒親認定するのは心理的な壁がある

確かに、わたしも最初の頃はそうでした。

まさか、自分の親が?

自分自身の問題は棚上げしておいて、親のせいにするなんて罰当たりではないか、

悪いことではないのか?とか。

 

ですが考えてみてください。あなたは現に、親と対話するだけで無性に腹が立ち、

イライラし、精神が不安定になる、、、

 

つまりは親の存在が人生に大きな影を落としているんです。

 

ものごとは多面的に考える必要があります。

少し違う観点から見るだけで、それが「目から鱗」の方向転換となって、それ以降その人の人生がぐんと、

生きやすくなるという例があります。

どうせ生き辛いと感じているなら、それを全面的に自分のせいにするのではなく、一度、

 

親の方に問題があったのではないか?

 

と、考え方を180度変えてみましょう。

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幼い頃の親との関わり 

◆幼い頃、あなたの親は、◆
  • あなたの顔をよく見てくれたか?
  • あなたに対して、よく笑いかけてくれたか?
  • 愛称で呼んでくれたか?
  • あなたの話を面白がって聞いてくれたか?
  • あなたの好きなもの、好きなことをよく話題に出して、会話をしてくれたか?
  • あなたの友達をあなたと同じように好きになってくれたか?
  • 嫌なこと、悲しいことがあった時、親身になって話を聞いてくれたか? 

いかがですか? 

相当数当てはまらない、という親を持つ人。

 

あなたが生き辛いのも無理はありません。

あなたは親から興味をもたれず、重要視されず、基本的な愛情表現も受けられないまま、

幼少期を過ごしたことになります。

 

これだけでも立派に、人生は生きづらくなってしまいますが、ここにさらなる複雑な展開が加わり、

事態を悲劇的にしてしまうことがあります。

 

さらなる悲劇とは

こういう子どもが成長してくると、今度は逆に親が子どもに甘えてくる、ということがあります。

 

子どもの研究家として名高いボールビーは「親子の役割逆転」と言う言葉を使っている。
 「親子の役割逆転」とは、親が子どもに甘えることであるが、子どもが親に甘えるのが自然である。それが逆転していると言う意味である。
 本来親が子どもの甘えの欲求を満たしてあげなければいけない。それなのに逆に子どもが親の甘えの欲求を満たしてあげる役割を背負わされる。

    (出典;加藤諦三「子供にしがみつく心理)

親子の役割逆転

つまりは子どもの話を聞いてもらえず、親の話ばかり聞かされるんです。

それも直接、子どもに関係ない親の人生の、多くは自慢話だったりします。

子どもは内心、うんざりしながらそれを聞かなければなりません。

しかし、黙って聞いてさえいれば親は機嫌がいいので、我慢して聞いているうち

それが当たり前の日常になってきます。

わたしの場合はもう、ほとんど子守唄でしたね笑

ポイント!
  • 生き辛い時は自分を責めるのではなく、親を毒親認定してみる
  • 幼少期を振り返り、十分に愛を得ていたか検証する
  • 親子の役割逆転という現象について知る

これだけで、あなたの人生には不思議な光明が見えてきます。

 

生きるからにはなるべく楽しく、明るい日々を送りたいもの。

そのためには多少、親を悪者に仕立て上げたからってバチが当たるわけではありません。

それに、表立って親を責める必要ももちろんありません。

もちろん責めたくなる時期も訪れますが、その前にまず、

悪いのは自分ではなく、親である

と、堂々と仮定してみましょう。

その上で少しでも気が楽になれば、それはあなたにとって間違いなく一歩、

前進したということだと、私は思います。

 

             さびドラ

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Amazon.co.jp: 人生の悲劇は良い子に始まる

 

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毒親育ちといじめられっ子の関連性

毒親のタイプは大まかに3つあると言ったけれど、厳密に言えばこれらは微妙に

重なり合ってる部分がある。

共通しているのが「子どもを愛していない」ということだが、それゆえ

無害の毒なし親が子どもに接する対応の仕方とは、決定的に違う部分がある。

 

それは何か?

 会話の量である。

 

私の母は私に対して、一方的に自分のことばかりを話した。

幼い頃は子守唄のように母の生育歴を聞かされ、長じてからは親族の悪口を聞かされた。

 

会話というのは双方のピンポン的やりとりで成り立っていくものであるが、

子どもの言い分をほぼ、聞かず、自分ばかり喋る親と接していると、子どもはその年齢相当の言語能力が育たない。

いわゆる「ボキャ貧」のまんま幼稚園なり小学校なり、集団生活に放り込まれ、

当然ながら友達ができない。

もとい、できにくい。

毒親の気質を持つ親は、自覚のないまま周囲から孤立してたりするから、

地域のママ友繋がりの中でそれなりの集団を作っている子どもたちともうまくやれない。

 

気の弱い子は集団から弾かれ、そのままいじめのターゲットにされる。

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毒を持たないフツーの親でも、子どもと会話するのが超絶苦手、という人はいる。

ここで大切なのは、出来るかぎり子どもの話を聞く、という親の姿勢である。

子どもというのはとにかく承認欲求のかたまりだから、いつでも自分の話をしたがる。

○○ちゃんはねえ、○○ちゃんのね、○○ちゃんとね、あのね、あのね、、、、

誰もいなければ独り言ででも、自分のことを喋っている。

この独り言に、あいづちを打ってやるだけでいいのである。

 

いちばん悪いのは無視して何も答えてやらないこと。

私の母はこれだった。

幼少期の私はいつも、たった1人で家にいるような錯覚に囚われていたように思う。

母は専業主婦でそこにいるのに、である。

おまけに私は誕生日が3月末日で、極め付けの早生まれだったために、ボキャ貧に加えて

コミュ力が圧倒的に欠如していた。

学校はまるで、恐ろしい獣が咆哮しつつ、うようよと徘徊しているジャングルであった。

 

そんな私でも、幼稚園、小学校となんとか通い通した。不登校にもならずに。

時代が時代なら不登校ってもおかしくなかったと思うが、当時は何があろうと

学校に行かない、という選択を子どもが取ることは許されていなかった。

そこで、数々のいじめに会いながらもなんとか耐えて学校に行った。

幸い、継続的ないじめのターゲットにはされなかったので、私の場合はせいぜい

「誰々ちゃんに意地悪された〜」と、泣いて家に帰って母に訴えることができて、

なおかつ好きなおやつでも与えられればその場で忘れることができた類のものであった。

しかし母は私の話に聞く耳をまるで持たなかったため、私の悲しみ、恐怖、不安は

そのまま蓄積された。

 

小学校の高学年にもなると、ハンデキャップ(体格やボキャブラリー、コミュ力の不足)は

ほぼ解消され、それなりに友達もできてクラスでもうまく立ち回れるようになった。

 

いじめられなくなったひとつのきっかけとして、真っ当な「怒り」の感情を

出せるようになったということがある。

それまでの私は、毒親を持つ子にご多分にもれず、自己肯定感の非常に低い子どもであった。

つまり、いじめっ子に対しては恐怖しか覚えず、その場から逃げることしか考えなかった。

 

よく、いじめられてる我が子に「やり返せ!」と言う親がいるけれど、そもそも

やり返せたら、最初からいじめられないんですよ。

 

ではなぜ、やり返せないのか?

それは、いじめる相手に対して真っ当な「怒り」を感じることができないからである。

恐怖や悲しみ、理不尽さは痛いほど感じるのに、やり返すに至るまでの感情、

つまり「怒り」がわかない。

 

心のどこかで、自分はこんな扱いを受けても当然な、最低の存在なのだと

認めてしまっているのである。

こんな私っていじめたくなるよね、

うんうん、至極ごもっとも。わかるよ。

なんていじめる側を肯定しちゃっていたりして、

まさかと思われるだろうがこれは事実である。

 

では、この極め付けの自尊心のなさが、いったいどうやったら培われるのだろうか?

親が子どもの言い分を、その本心を無視し続け、

自分都合で勝手な解釈を押しつけながら育てると、

こういう子どもが出来上がる。

 

何を言ってもまともに受け取ってもらえないと、子どもは次第に喋らなくなる、

もしくはいきなり癇癪を起こして暴れるようになる。

封じ込められ、表現できない自己をそうやって発散させるしかないからであるが、

それをやると親は例外なく「悪い子」「とんでもない子」「誰に似た?」

「お前の(あなたの)せいだ」などなど、

当の子どもを目の前に夫婦喧嘩をおっぱじめたりして始末に追えなくなるから、

ここでも子どもは最後に黙るより他はない。

鬱屈した感情は、翌日の学校生活に持ち越されるから、さらに「暗いヤツ」

「きもい」「いじめてやれ」となってしまう。

 

人気YouTuberでメンタリストのDaiGoさんの動画で、彼が小学校から中学にかけて

8年間もいじめられていたお話をされていたけれど、

悪質ないじめに終止符が打たれたきっかけは、母親の悪口を言われて

突発的に怒りを感じた彼が、とっさに取った行動だった、

という話だ。

 

健全な自己肯定感を持った子どもは概していじめられることはない。

意地悪をしたりされたり、といった些細なことはあっても、それでメンタルを

やられることはない。

そして健全な自己肯定感はどこで培われるのか?といえばそれは主に、

幼少期の親との関係においてなのである。

 

子育てにおいて唯一大切なもの。

それはこの「自己肯定感を育てる」ことに尽きるのではないかと私は思っている。

 

       さびドラ

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news.livedoor.com

 

 

 

 

 

 

使いやすいフキンってどれ?掃除と使い捨てカウンタークロスの話

こんにちはさびドラです。

慣れないブログを更新しながら、慣れない文字打ち、リンク貼り、文章作成などなどに四苦八苦しています💦

 

慣れない作業も続けていればいつか慣れて、楽になる。

これってどんなことにも通じると思ってます。

その一方でいつまで経っても慣れない作業ってあるよなあ、とも思っています。

長年、私にとっての慣れない作業、それは掃除でした。

ウサギとパンダが掃除をしている

ザ・掃除。

 

毒親は片付けられない人が多い

し、知らなかった😱

うちの親は〜どうだったろう?と、はるか昔の実家の記憶を思い起こせば、

そこには確かに物がごちゃごちゃと散乱し、お世辞にも整った家庭とは言い難い

雰囲気の部屋が・・・👻

母の口癖

「私はお手伝いさんがいる家で育ったから、掃除の仕方なんて誰にも教わったことない」

ふ〜〜ん。だから私にも教えられない、というわけか。

 

嫁いだ先の姑は、幸か不幸か料理、掃除、整理整頓、どれをとっても超がつく見事な腕前を誇る

スーパー主婦。

毎日主婦やってることが楽しくて嬉しくて仕方のない、といった風情の姑は、

ある日重いため息をついて嫁の私に言いました。

 

「私は息子(旦那のこと)に、生まれ落ちた瞬間から片付けを教えてきた。

なのにその甲斐もなく、息子はだらしのない男に育ってしまった。

だからせめて、嫁だけは掃除の得意な子がよかったのよ」

 

つまり私は嫁失格ってことが言いたかったわけ。

 

掃除の仕方

皆さんは親に教えてもらってましたか?

実は昭和の中頃、三種の神器の一つである掃除機が出回る以前から、基本は

変わらないみたい。

手順は奥から手前。高いところから低いところへ。大きなゴミを始末してから小さなゴミ。

大まかなところから次第に細部へ。

掃除が好きな人は手順を愛する

お茶の師範でもあった姑は、何をするにも手順、手順、手順と連呼する人でした。

そして掃除の苦手な私は、まさに手順無視で行き当たりばったり初めてしまう。

例えば汚れを見つけたら、ボロ切れを探しに行き、探しているうち片付け物を目にしたら

そっちに取り掛かって汚れを忘れてしまう。

 やりっぱなし、なんでも中途半端という家事がかくして日常になります。

苦手だった家事を、なんとかして得意に変えたい

私にとって姑は、決して好きな人でも優しい人でもなかったけれど、少なくとも実の母よりは

感性のまともな人だったので、彼女から学ぶものはたくさんありました。

もう亡くなって何年も経ちますが、今でも主人の実家に一歩足を踏み入れた

瞬間にいつも感じた、あの静謐で洗い清められたような空気を覚えています。

決してミニマリスト 、というわけではなかったけれど、モノの極端に少ない、

ゆえに空間を広々と見渡せる部屋の佇まいに触れるたび、私はなんとかして

掃除が得意になりたい

と切に願ったものでした。

 

さて、タイトルにあるカウンタークロスとは、要するに台所フキンのことです。

面白いことに姑の使うフキンはいつも真っ黒に汚れていて、それは風呂場のタオルの

使い古しだったり、商店街の名入りのものだったり。

それを二枚断ちし、周囲を縫い、ボロボロになるまで使ってました。

ちなみに実家の母のフキンはこれと対照的に、真新しいフキン専用のタオルを

おろしたての綺麗なもの。

その実家の台所。

壁には真っ黒に汚れがこびり付き、対照的に真っ黒なフキンからなる姑の台所の壁は、

いつも清潔に拭き清められておりました。

 

要は主婦の好みによって、

フキンと壁の美しさは反比例するってことですね。

 

それはさておき、私さびドラはどっちつかずの典型で、要はフキンも壁も汚い・・・

って、、、?

そんな失礼な。

 

でもフキンって。

新しくすればみるみる汚れていきますよね。

つくづく人間が生活するって、汚れを生産することとイコールなんだなって思います。

そこでいつの頃からか、これを使うようになりました

使い捨てカウンタークロス

これの類型は多種、ネット通販で手に入れることができますが、コスパの面でも

一番使いやすいのがこれだと思います。

何より、テーブルや壁の汚れは嫌だけれどもフキンが汚れるのもいや、という

私のような矛盾と闘うダメダメ主婦の葛藤は、

これが半分、解決してくれます(全部とは言いません)

 

何より嬉しいのはテーブル吹きまくって、汚れて目も当てられない状態になったら、

棚や壁、それから床へと順におろして使えること。

 

そしてサイズがまたいい。

クイックルワイパーに3枚折でセットするのにぴったりなんです。

と、いうわけで使い捨てキッチンカウンタークロス。

ぜひお試しあれ♪

 

さびドラ

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